今までのテーマトーク

今月のテーマは「いいと思う部落の地名の出され方、嫌だと思う出され方、ってどんなの?」です!

メンバーの多忙につき2月の座談会の続きをするのが難しくなってしまったため、続きとして話し合う予定だったテーマを、従来通りのテーマトーク形式で掲載します。

たみ 「やっぱり新潮45の上原さんの記事「『最も危険な政治家』橋下徹研究 孤独なポピュリストの原点(『新潮45』11月号)筆者・上原善広氏 」は嫌だと思う。週刊朝日の「ハシシタ…」はもちろんとして。

 

みどりんが座談会で言ってたけど、地域名を出すというのは地域ぐるみのカミングアウトになるわけで、 多くの人に影響がある。それを記事によって勝手にするということになるという覚悟や必然性と、そのことに向き合う真摯さが必要だと思う。上原さんや佐野さんの記事にはその真摯さも必然性も感じない。

 

このテーマトークを書くにあたって、今まで自分が読んできた(数少ないけど)部落に関して書かれている本を

読み返してみたら、森達也さんの「放送禁止歌」とか、角岡伸彦さんの「とことん!部落問題」とか、 地名が出ているのに特に違和感なく読んできたものもあったことに気が付いた。地名が出されること自体がいいのか悪いのかというよりは、その記事のなかで地名を出すことに必然性があるのか地名を出したとしても読者が差別をしようと思えないような記事になっているのか(それくらい真摯に書かれているか)ということが大事なのかな…と思う。「放送禁止歌」や「とことん!部落問題」はそれを感じるから嫌じゃないのかな…。

 

でも一方で、そういう風に書かれた記事だとしても、そこに住んでいて自分たちが住んでいるところが部落だと公になることが嫌だと思っている人や記事の文脈とは関係なく、そこが部落だということだけを抜き出して差別に利用する人がいるのだろうなということは忘れずに考えておきたいなと思う。(2013/5/17)

ともえ 「わたし、部落出身なんです」とカミングアウトするとき、「大阪の、○○という父のふるさとの被差別部落で小さい頃、暮らしました」って、必ず話す。

 

なんで地名を出すのか、というのは、やっぱり、具体的な地名をもった地域が実際に大阪のここにあり、そこにはこういうふうな歴史があり、こんなふうに人びとは暮らしてきた、と、とにかく具体的に語りたいから。「部落出身者なんて会ったことない」「自分は差別なんてしない。だから、自分には関係ない」というような人に対して、部落出身者だと自分のことを思っている“人間”がこの社会で生きているのだ、ということから始めないといけない状況がある、と思ってる。一人の人間が生きているということのリアリティを伝えるときに、名前とか生まれ育った地域とか、固有名詞を交えないと伝わらない、って思うのよ。その部落で生きている人間のことば、その部落に愛着をもっている人間のことばがあるときに、地名もセットで伝わっていくのがいい。

 

だから、嫌だと思う地名の出され方は、そこに“人間”が生きている、と想像させないような語られ方をしているとき。「あんなところに、こんなやつら(→もはや“人間”でないような扱われ方をされてる)が住んでるんだ、、、」と思ってしまったら、もう、そこから聞き手/読み手と、その地域に住んでいるひとの距離が縮まることはない。それどころか、具体的な地名をもって存在しているその地域を、自分とは関係のない遠いところで、近づきたくないところ、という嫌悪感・忌避感を感じさせてしまう。そんな語られ方/書かれ方だったら、地名を出すというカミングアウトの意味がない。

 

最近は、橋下市長の週刊誌の記事などからもわかるように、相手を批判する際に、部落出身であることを理由として成立する社会でなんだな、と実感している。10年前はもっと楽観的に考えていたけれど、そうじゃないことを感じながら生きている。自分が地名を出して、ここが部落だ、と語ることにより、そんなこと言ってほしくない・暴いてほしくない、と思う関係者もいると思し、その切実感はまた強くなっていると思う。だから、私は私が伝えたいことを伝える過程で、これからもっと周囲の関係者(家族やその地域に暮らしている人たち)との軋轢・摩擦が生じることもあるだろう。でも、だからといって、自分がこうしたい、というのを押さえるのは難しい気がしてる。それぞれの事情でみんな生きているから。わたしの事情もあるしさ〜。(2013/5/17)